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2021.02.20

リアル忍者から私たちが学ぶこと

甲賀忍者の末裔 渡辺俊経さんからのメッセージ

戦国時代から江戸幕末まで活躍したといわれる忍者。

その真実は今も多くの謎に包まれています。

甲賀忍者の末裔(まつえい)であり、歴史を紐解く渡辺俊経(としのぶ)さんに、

忍者のリアルな姿や、私たちが忍者から学ぶべきことを伺いました。

 

―渡辺さんは、60歳を過ぎてから忍者の末裔と知ったと伺いました。


東京で長年会社勤めしていた私は、62歳のときに甲賀へ帰郷し、そこで初めて曾祖父が尾張藩最後の忍者の一人と知りました。忍者は一子相伝であり、曾祖父もそれを守ったのでしょう。祖父母や父母から忍者について聞かされることはありませんでした蔵を探すと忍術書や代替わりの誓約書などが150点もみつかり、尾張藩に「忍び役人」として7代仕えていたようです。私は導かれるまま忍者を研究し始めましたが、それは忍者の末裔だからというよりも、田舎に住みつくことによって生まれた交友関係や、身近な歴史遺産から得られた“日本の文化や歴史の真ん中にいる感覚”によって自然とそうなったように思います。

 

 

蔵から発見された古文書の一部。

 

―昨年出版された書籍『甲賀忍者の真実―末裔が明かすその姿』によると、忍者の認識について世間と渡辺さんの間にギャップがあったそうですね。


その通りです。飛んだり、跳ねたり、消えたりというのは空想の忍者。実は、甲賀忍者が自らを忍びと呼ぶようになったのは江戸後期のことです。それまでは、普段は農民をしていて、いざという時に戦いに出た甲賀武士でした。彼らは自治・和解の達人でもありました。領主の権力が強かった戦国時代に、話し合いのうえ投票で決議するという、民主主義による自治をしていたのです。また、それが許されるほど信頼もされていました。そうした知性・理性・決断力を持つ人たちが各地で活躍した結果、甲賀忍者と呼ばれるようになったのです。

 

 

渡辺家の古文書が翻刻された『渡辺俊経家文書』。甲賀図書館などで閲覧できる。

 

―実際にご先祖が活躍した事例はありますか。


実際の忍者活動に関する記録はほとんどなく、唯一残っているのは、「大和郡山城の城主交代に際して反乱の噂がたち、尾張藩からの命で城に潜入した。その結果、戦闘準備はしていないことがわかり、立ち退くようだと報告したところ、その通りとなりお褒めいただいた」というものです。ただ、この時5人派遣されたことはわかっていますが、誰がどのような働きをしたかまではわかっていません。

 

 

軒先では小豆が干され、目前にはのどかな田園が広がる。

 

諸国の問題を平和裏に解決できた背景にも甲賀忍者の活躍はあったのですね。現代の私たちが忍者から学ぶことがあるとすれば、どのようなことでしょうか。


私が研究を通して知ったのは、忍者が自ら考えて動くことのできる、高いリテラシーを持った人たちということです。こうした人としての在り方や、社会との関わり方は、現代の私たちも学ぶことができるでしょう。このことをどのように広く知っていただくかは、これからの世代にお任せします。

 

 

■ PROFILE

渡辺 俊経(わたなべ としのぶ)さん

1937年生まれ。京都大学工学部大学院修了後、東京の大手化学会社研究所に勤務。2000年甲賀市甲南町杉谷に帰郷。曾祖父が尾張藩最後の忍者の一人。甲南町忍術研究会会長、甲南町観光協会会長、観光ボランテイアガイド部部長、甲南地域史研究会会長などを歴任。

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撮影・山崎 純敬 / SHIGAgrapher

ライター・大山 真季 / ノギラボ