2022年12月1日(木)公開
大政奉還から明治維新へ。幕末から明治は日本が激しく揺さぶられ、大きな変化を遂げた時代です。薩摩や長州、土佐、肥前など明治維新の中心となった藩があった一方、近江国・現在の滋賀県について、この時代が語られることは多くありません。その理由を探るためには、近江国で最大石高(領地の多寡)を誇った彦根藩とそこで起きた出来事を遡る必要があるのだとか。
「幕末の近江を語る上で忘れてはならないのが井伊直弼。彦根藩主に就任したのは、嘉永3年(1850年)です。その3年後の嘉永6年には、かの有名なペリーが来航し、日米修好通商条約の調印を要求します。また、時を同じくして幕府は将軍の跡継ぎ問題も抱えていました。直弼は、第13代将軍徳川家定の跡継ぎとして、御三家の一つである紀伊和歌山藩主・徳川慶福(よしとみ)を将軍に推し、且つ開国派の大名らと『南紀派』を形成します。これに対して、御三卿(ごさんきょう)の一人・一橋慶喜を支持する動きが現れます。これを主導したのは、幕府政治への発言力を高めたかった慶喜の実父・徳川斉昭、薩摩藩主の島津斉彬などで『一橋派』を形成。直弼ら『南紀派』との対立を深めていきました」(太田さん)
太田さんいわく、この南紀派と一橋派の対立が後に大きな禍根を残し、滋賀県誕生の歴史に深く影響してくるのだとか。
「安政5年(1858年)、直弼は大老に就任すると、継嗣問題と開国の問題を解決するために強引な行動に出ます。将軍継嗣を徳川慶福と決定。さらに、アメリカが要求していた日米通商条約を、孝明天皇の許しを得ないまま幕府の独断で調印してしまったのです。その上、直弼はこの条約調印を不服とした徳川斉昭を処罰。一橋派に味方し、反幕府的な行動をとる者を次々に捕まえて逮捕・処刑していきました。いわゆる『安政の大獄』です。その中には長州藩士の吉田松陰も含まれていました」(太田さん)
そんな直弼の強引なやり方に不満を抱えた水戸浪士によって、安政7年(1860年)3月3日、直弼は江戸城へ向かう道中で襲撃され、その生涯を閉じます。「桜田門外の変」として幕末の歴史に残るこの出来事は、直弼の大老就任から2年足らずで起きた事件でした。
直弼死去の報告を受けた彦根藩士は、直弼を討ったのが水戸浪士であったことを知り、水戸藩邸に討ち入ることを主張しますが、ある人物がその行動を思い留まらせました。
太田さんは「この人物がいなければ、滋賀県はなかったかもしれない。滋賀におけるターニングポイントがこの時にありました」と話します。
「彦根藩中老の四男として生まれた岡本黄石(こうせき)という人物をご存知でしょうか。直弼が藩主となった折、家老格となり、翌々年には家老本役を命じられた彦根藩の重要人物です。黄石は、『井伊家35万石の存続が叶えば、涙をのんで仇討ちをやめるが、万が一、幕府から不満が残る処遇を受けた時は、水戸藩邸に討ち入る所存である』と藩士らにつげ、事態の沈静化と収拾を図りました。しかし、その後も彦根藩の苦しい局面は続きます。直弼と対立していた一橋派が幕政を主導する形となり、彦根藩はますます厳しい立場に追い込まれていきました。」(太田さん)
幕閣内には、直弼の失政を糾弾する声も強く、彦根藩を処罰しようとする動きがあることを察知した黄石は、驚くべき行動を取ります。
「なんと、直弼と対立をしていた勤王派を支援する側に回ったのです。彦根藩を味方に引き入れようとする長州藩が接触を図ってきたことがきっかけだったと言われています。その後の長州出兵の際には、彦根藩が警備を担い、黄石がその指揮をとっています。第二次長州出兵にも彦根藩は出陣。そして、将軍・徳川慶喜の江戸逃亡を契機に、彦根藩は黄石の主導で新政府側に転向します。直弼存命時は強硬な幕府側でしたが、黄石は藩の存続をかけて徐々に新政府側との関係を構築していったのだと思います。新政府側の京都攻めの際、新政府軍は敵対しているはずの彦根を中心とした近江を素通りしていきました。憎き直弼の領地ですが、近江は無傷でありました。これは、黄石の政治手腕、力に寄るところが非常に大きいと考えています。もし、水戸藩に討ち入りをし、新政府側との対立をさらに深めていたならば…。今の滋賀県はなかったかもしれません。」(太田さん)
明治維新後、新政府は旧幕府直轄領の支配と分割を始めます。江戸時代、近江国は彦根藩、膳所藩、水口藩のほか、多数の小藩や他国藩の飛び地が入り混じっており、合計で80万石の大きな領地でした。
「明治元年(1868年)には、大津代官所に代わる行政機構として大津裁判所が設置されました。ほどなくして近江国は『大津県』と改称されます。明治4年(1871年)には彦根藩・膳所藩が廃止され、彦根県・膳所県に移行。その後、廃藩置県が行われ、旧近江国の南部6郡は「大津県」に、北部6郡は「長浜県」に統合されました。この時、大津県の県令に赴任した松田道之は『大津代官所という幕府機関の名称を残したままでは文明開花を進めることができない』と、大津県の名称変更を大蔵省に要請します。この時に松田直之が示した改名案が『滋賀県』であり、明治5年(1872年)からは滋賀県と改称されました。これが滋賀県の始まりです」(太田さん)
「忘れてはいけないのが交通網の発展です。江戸時代の琵琶湖の舟運を担っていた丸子船は蒸気船へと姿を変え、湖上交通の様相も大きく変貌しました。明治15年(1882年)には敦賀〜長浜間で鉄道が開通。その翌年には長浜〜関ヶ原間が開通しました。滋賀県は北陸・東海方面と京阪神を結ぶ要所として、全国の交通網の重要地点となるに至ります。鉄道と湖上交通の整備は、滋賀が発展した大きな要因と言えるでしょう。」(太田さん)
激動の幕末から明治、そして近代化への道。歴史の中であまり語られることのない近江国〜滋賀県のストーリーですが、太田さんは講演会の最後にこうお話しされました。
「現在の姿になるまでに、多くの出来事が滋賀で起こりました。しかし、激動の幕末において大きな混乱に陥らず、滋賀県が守られたのは、やはり岡本黄石の功績がとても大きかったのだと思います。県政150周年の講演会をきっかけに、滋賀の立役者と言ってもいいほど活躍した黄石の存在を知っていただけたらと思います。」