歴史シリーズ 紫式部と近江② 石山寺と紫式部

2024年10月9日(水)公開

文:淡海歴史文化研究所

所長 太田浩司

 

 

 

大河ドラマ『光る君へ』に寄せて

 

今年のNHK大河ドラマは、『源氏物語』の作者紫式部の生涯を描く『光る君へ』です。このシリーズでは、紫式部と近江との関係を3回に分けて紹介しています。式部ゆかりの近江の史跡の中で、2回目に取り上げるのは、『源氏物語』起稿の地として知られる石山寺です。この名刹と紫式部の深い繋がりについて、少し掘り下げて考えてみましょう。

 

 

 

『源氏物語』起筆までの式部

 

長徳2年(996年)、越前守となった父・藤原為時は「受領(ずりょう)」として越前に赴きますが、式部も父に従って近江の琵琶湖を水路で行き、越前の国府(越前市)までの旅をしました。第1回では、その旅路の一端を紹介しました。

 

ところが、理由はよく分からないのですが、その翌年か翌々年に式部は単身で帰京しています。そして、父の同僚だった藤原宣孝と結婚し、賢子(かたこ、大弐三位)を産みました。喜びも束の間、長保3年(1001年)夏に宣孝が死去してしまいます。その頃から大作『源氏物語』を執筆し始めた言われています。

 

 

 

物語起筆の地・石山寺

 

その起筆の地として伝承されるのが滋賀県大津市の石山寺です。紫式部はこの頃、藤原道長の子で一条天皇の中宮となっていた彰子(あきこ)から、珍しい物語の執筆を依頼されていました。式部はそのために石山寺へ7日間籠って、よい物語が出来るよう祈願を行ったと言われています。

 

石山寺縁起絵巻 全七巻のうち第四巻部分 紫式部(室町時代 重要文化財)

 

有名な『石山寺縁起絵巻』(重要文化財)は、巻によって成立年代が違いますが、巻4は室町時代の明応6年(1497年)頃の成立であるとされています。そこには、寺内の建物から御簾をよけて、湖面に映る月を眺める式部が描かれています。この名月に着想を得て、第12帖の「須磨」の巻から、物語を書き始められたと言うのです。

 

 

 

 

平安女性の石山詣

 

当時、石山への参拝「石山詣(もうで)」は、貴族の間での流行していました。特に女性が多く通い、彼女らの日記には、早朝京を出立し逢坂山を越えて、夕方には石山寺に至る経路や、夜間の参籠が記述されています。藤原道長の異母兄弟である藤原道綱の母は、式部より前の天禄元年(970年)の参詣を『蜻蛉(かげろう)日記』に記しています。菅原孝標女(たかすえのむすめ)は、式部より後になる寛徳2年(1045年)の参詣を、『更級(さらしな)日記』に記しました。

 

実は、石山寺で『源氏物語』が起筆されたという伝承は、式部と同時代の史料で実証できるものではありません。ただ、南北朝時代に成立した源氏物語の注釈書河海抄(かかいしょう)」にも記されているので、中世の早い段階から伝えられ、多くの知識人たちが紫式部の姿を追って、石山寺を訪れることになりました。

 

源氏の間 石山寺(写真提供:石山寺)

 

 

 

「源氏の間」の存在

 

現在も、石山寺の本堂には紫式部が参籠したと伝わる部屋「源氏の間」が残されています。ただ、現在の本堂は永長元年(1096年)に再建されたものです。紫式部は、それ以前に亡くなっていると考えられるので、この部屋は以前の本堂を踏襲し造営されたということでしょう。

 

天文24年(1555年)、有名な歌人・古典学者の三條西実隆の子・公条(きんえだ)は、連歌を得意とした大覚寺義俊や連歌師3人をともなって、石山寺に詣でていることが、石山寺に残る「石山月見記」から知られます。有名な石山寺の名月を愛でつつ、紫式部の昔を偲ぶための旅でした。

 

石山寺 月見亭

 

8月14日に京都を発し、昼過ぎには石山寺につき、まず「源氏の間」を訪ねています。その後、月見に相応しい場所を探して寺内を回っています。実条らは19日まで連歌を読み続け「千句連歌」を残して、21日に帰京しました。

 

月見亭から見た瀬田川と琵琶湖

 

石山月見記 三条西公条筆

 

 

 

織田信長と石山寺

 

話は戦国時代に下りますが、織田信長も石山寺と紫式部の関係を知っていたようです。元亀3年(1572年)8月、信長は戦国大名の浅井長政を追い詰めるために、浅井氏の居城小谷のすぐ前に虎御前山砦(とらごぜんやま)を構築します。信長はその仕立てと景色が大変気に入ったようで、『信長公記』には周辺の見事な景色について詳しい記述があります。

 

小谷城や比叡山と、自らが攻撃した箇所に触れた後、石山寺のご本尊は中国にも知られた霊験あらたかな観音像であり、「往昔紫式部も所願を叶へ、古今翫(もてあそ)ぶ所の源氏の巻を注しをかれたる所なり」とあります。実際には、虎御前山から石山寺は見えないでしょうが、織田信長も紫式部が石山寺で源氏物語を起稿したことに関心を寄せていたのでしょう。

 

紫式部供養塔 石山寺

 

 

 

島津家久の石山寺参拝

 

九州薩摩国の大名島津の一族・家久の上京日誌「島津家久上京日記」の天正3年(1575年)5月17日条では、14日・15日に明智光秀の坂本城を訪れた後、石山寺を訪ねたことが見えています。

 

「石山の観世音へ参詣候へハ、源氏のま(間)とて紫式部源氏を書たてし所あり、其上に式部の石塔有」・「寺に帰り、石山の御ゑんきの絵像拝見、其より(里村)紹巴此歌徒(つれずれ)にやハとて、源氏桐つほの巻を読候」と記しています。

 

まず、本堂の「源氏の間」を訪ね、その上段に今もある式部の供養塔に参っています。さらに「石山寺縁起絵巻」を見せてもらい、一緒に行った連歌師・里村紹巴(じょうは)が読む『源氏物語』の「桐壺」を拝聴しています。島津家久も紫式部と『源氏物語』を強く意識して石山寺を訪ねているようです。

 

 

 

石山寺の宝物

 

石山寺には「石山寺縁起絵巻」(重要文化財)など紫式部を描いた絵画が多く伝来します。それらは、おおよそ①式部の単身像、②石山寺での起稿を描く観月像図、それに③歌仙図です。

 

紫式部像 土佐光起筆

 

①の単独像は伝狩野孝信(桃山時代)や土佐光起(江戸時代)筆の作品が有名です。いずれも筆を持ち料紙に字を書こうとする姿です。②の観月図は英一蝶(はなぶさいっちょう)や清原雪信筆の作品(江戸時代)等が伝わります。室内で机に向かう式部と天上の月が描かれます。③の歌仙図は「歌合絵巻」で、石山寺には凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)との対となった古い作例(鎌倉時代)が知られます。

 

紫式部観月図 清原雪信筆

 

歌合絵巻断簡

 

また、式部が『源氏物語』起筆時に使用したと伝える硯や、式部が奉納したと伝える大般若経も寺には残っています。式部が『源氏物語』の冒頭を思いついた際に、近くにあった大般若経の裏に、取り敢えず物語を書きつけたという話も伝わっています。

 

 

 

『源氏物語』に関する美術品

 

石山寺には紫式部その人のみでなく、『源氏物語』に関する美術品も多く残されています。その一つは、物語の各巻の名場面を絵師が描いた「源氏絵」です。石山寺には画帖や屏風に編集された「源氏絵」が多数保存されています。

 

源氏小鏡

 

また、石山寺に伝来する『源氏小鏡』は、長編物語である『源氏物語』のダイジェスト版で、彩色の挿絵付の作品で五十四帖すべての場面を有するのは、国内では石山寺に残るものが唯一です。物語の各巻に寄せられた和歌を連ねる書跡は、『源氏物語湖月抄』の著者である北村季吟、大和郡山藩主の柳沢吉里、それに幕府の文化事業に力を尽くした近江堅田藩主の堀田正敦(まさあつ)の作品知られています。

 

伝紫式部科 古硯

 

大河ドラマ『光る君へ』が放送されている今年。びわ湖大津大河ドラマ館(石山寺)や寺の展示収蔵施設「豊浄殿」での展示と合わせて、石山寺を拝観し、紫式部と平安貴族の世界に親しんで頂ければと思います。

 

 

 

 

 

 

■「紫式部の越前下向と塩津越え」記事はこちら

 

 

 

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