歴史シリーズ  紫式部と近江①紫式部の越前下向と深坂越え

2024年07月10日(水)公開

文:淡海歴史文化研究所

所長 太田浩司

 

 

 

大河ドラマ『光る君へ』に寄せて

 

今年のNHK大河ドラマは、『源氏物語』の作者紫式部の生涯を描く『光る君へ』です。紫式部であれば、『源氏物語』起稿の地として知られる石山寺以外は、滋賀県とは無縁だと思われるかもしれません。しかし、式部の生涯を読み解くと、長徳2年(996年)、父の国司としての赴任地・越前との往路や、翌年か翌々年の都への復路に際して、近江の地を見聞して、いくつかの歌を残しています。その歌をたよりに、近江の史跡を3回にわたって紹介することにしましょう。第1回目は「塩津越え」です。

 

 

 

紫式部の前半生

 

その前に、紫式部の生涯を簡単に紹介しておきましょう。式部は天延元年(973年)に、中級貴族の藤原為時の二女として誕生しました。したがって万寿4年(1027年)は式部55歳の年で、その年以降に亡くなったとする説がありますが、死没年は正確には分かりません。ドラマでは「まひろ」と言っていますが、前近代の女性の多くがそうであるように名も不明です。

 

長徳2年(996年)に、越前の国司となった父が「受領(ずりょう)」として越前に赴く際に、父に従って近江・越前の旅をします。その翌年か翌々年に帰京、父の同僚だった藤原宣孝と結婚し、賢子(けんし)を産んでいます。

 

 

『源氏物語』と藤原道長

 

長保3年(1001年)夏に宣孝が死去。式部はその頃から『源氏物語』を執筆し始めたといいます。寛弘3年(1006年)12月29日には、一条天皇の中宮・彰子の許に出仕しています。寛弘7年(1010年)夏頃に『源氏物語』を完成させ、一条天皇没後も彰子に仕え、一時宮仕えを中断した時期もあるようですが、寛仁3年(1019年)正月に再び彰子のもとに出仕しています。

 

ドラマで描かれる時の権力者であった藤原道長との関係ですが、『紫式部日記』に藤原道長との戯(ざ)れ歌の遣り取りを記していますから、知り合いであったことは確かです。また、南北朝期に成立した『尊卑文脈(そんぴぶんみゃく)』には、道長の妾(しょう)であったと記述がありますが、300年以上後に記されたものですので、確かな話ではありません。

 

 

紫式部の越前下向

 

 

越前への旅は、まず京を出て近江国境の逢坂山を越え、大津の打出浜に至っています。そこから船に乗り、湖西の沿岸を進み塩津の湊に上陸しました。ドラマでは、塩津湊の風景も描かれました。そこから塩津街道、いわゆる深坂越えで越前国へ入っています。この塩津越えの途中に、式部が詠んだのが次の歌です。

 

しりぬらむ 往来(ゆきき)に慣らす 塩津山

世に経る道は からきものぞと

 

塩津越えでの式部の思い

 

この歌の前書によれば、塩津山を越える塩津街道は、大変多くの人が往来していたといいます。身分の低い輿(こし)の担ぎ手が、「ここは難儀な道だ」と話すのを聞いて詠んだ歌で、担ぎ手たちは塩津街道の往来に慣れているだろうが、世渡りの道は「つらい」ということを知っているだろうか、と言った意味でしょう。

貴族という高位な立場で、輿の担ぎ手を下手に見た態度が少し気になります。ドラマでは地位の高下を気にしない性格に描かれますが、現実は貴族の娘ですから仕方のない感想でしょう。実は式部の越前行きは、絶えず任国への不安があり、都暮らしを恋しく思う辛さを背負っての旅でした。彼女の和歌集『紫式部集』から知られますが、ここも希望に満ちて越前に向かうドラマと現実の相違点です。

 

 

塩津の交通上の位置

 

前近代において琵琶湖は、北陸・東海地方から荷物や旅人を京都や大坂に運ぶ流通の大動脈で、運河の役割を担っていました。したがって、塩津湊(現・滋賀県長浜市西浅井町塩津浜)から大津・堅田の湊に至る南北航路が幹線となっていました。塩津湊は琵琶湖の最北部にあたり、『万葉集』にも古代の旅人が残した数首が載る琵琶湖の最重要港と言えます。

湊旧地において、平成18年〜30年に至り、日本史を覆すような発掘調査がありました。湊跡のすぐ西側を流れる大川の改修工事に伴うもので、平安後期(11世紀~12世紀)の神社跡が見つかっています。平安時代の神社が、「御神体」と目される神像と共に発掘されるのは全国的にも稀なことです。

 

踏板に転用された船材出土状況(滋賀県提供)

 

 

平安時代の塩津湊発掘

 

さらに、平成24年~27年に国道8号線塩津バイパス建設に伴う工事が行なわれ、神社遺跡から東へ200m程行った湖岸から、湊に突き出た桟橋状の遺構が発掘されています。12世紀代の湊跡で、湖岸に土砂を入れて陸地化するために、板や杭を打って護岸を形成していることが分かりました。

現場からは「皇后宮御封米」と記されたスギ材の縦8㎝ほどの木簡(絵符)も発見され、京都への物資を運ぶ中継地であったことが確認されています。紫式部が降り立った湊からは約100年から150年後の姿ですが、平安時代の湊の景観を彷彿させる遺構です。

この平安時代の湊に続く中世の湊は、塩津地域の内陸部である塩津中村(同市西浅井町塩津中)にあったと推定されています。さらに近世から近代になると塩津浜村へ戻り、大川の東に当たる大坪川沿いに形成されました。琵琶湖の湊の位置は、水位によって、時代により場所が変わっていくのです。

 

 

 

塩津街道と深坂越え

 

この湊から越前に延びるのが古代からの塩津街道で、琵琶湖と越前敦賀湊を結ぶ最短路「深坂越え」でした。現在の国道8号線のルートは、新道野(福井県敦賀市新道野)を経由しますが、この道筋は戦国時代の弘治年間(1555~58年)頃に開発されたものです。それ以前は、奈良時代から深坂越えが使われてきました。

 

深坂越えは現在もたどることが可能です。滋賀県側から行くと、敦賀市の新道野集落直前で、国道8号線より西へ入る深坂地蔵への参道を行きます。平清盛が塩津と敦賀間の運河を造ろうとしましたが、途中で大きな岩にぶつかり計画を断念しました。その岩の下から現れた地蔵を祀った堂が今も建ち「堀止地蔵」とも呼ばれています。

 

この地蔵堂に至る風景は、式部が通った古道を感じることができます。地蔵堂からしばらく行くと、滋賀・福井県境(近江・越前国境)の深坂峠に至り、坂を下って敦賀市追分に出ることができます。

 

深坂地蔵に至る古道

 

深坂地蔵堂

 

深坂峠(福井県側から滋賀県側を見る)

 

 

深坂峠を越えてみよう

 

 

 

峠から敦賀市側に下る道には、式部の和歌を記した看板も建っています。街道は敦賀の町に入る手前の道口(敦賀市道口)から、木ノ芽峠か山中峠を越え、越前国府があった武生に向かうことになります。ドラマでは、武生方面に行かず、敦賀の松原客館を先に訪れていました。

 

深坂越えは全長3.8km・約2時間の気軽なハイキングコースです。式部が通った街道をたどりつつ、平安貴族の旅を追体験するのも楽しいものです。

 

深坂越えにある紫式部和歌看板

深坂越え地図

 

シェアする:
記事一覧へ