2023年10月27日(金)公開
仏教とともに、中国・百済(くだら)から漢方の医術と薬物が日本に伝来したのは5世紀半ば。「万葉集」に収められている「あかねさす紫野(むらさきの)ゆき標野(しめの)ゆき野守(のもり)は見ずや君が袖ふる」は、その約100年後の飛鳥(あすか)時代に蒲生野で行われた“くすりがり”の情景を額田王(ぬかたのおおきみ)が詠んだ一首だと言われています。
「近江の地では古くから薬草を利用してきました。この和歌は滋賀県の薬に関するもっとも古い記録だと言われています」。(古田さん)
平安時代に記された「延喜式(えんぎしき)」には全国から貢がれた産物の記録が残っていますが、近江国からはもっとも多い73種類もの生薬が朝廷に納められていたことがわかります。
薬草の栽培が盛んになった理由は、昔から様々な種類の薬草が豊富で温暖な気候など自然環境が薬草栽培に適していたからだったと言われています。
「県の最高峰である伊吹山も薬草の産地。そこに目をつけた織田信長は元亀元年(1570年)にポルトガルの宣教師が伊吹山に薬草園を開くことを許可。ポルトガルから取り寄せた西洋薬草を栽培させたことも伝わっています」。(古田さん)
江戸幕府も薬草の栽培を奨励。本草(ほんぞう)学者を伊吹山に向かわせて調査に当たらせました。明治6年(1873年)発行の「日本産物誌」には伊吹山の植物が312種も掲載されています。辺りのヨモギを使う「伊吹もぐさ」は、今も大切な特産品です。
滋賀県における薬業の起源は大きく3つに分けることができます。ひとつは甲賀(こうか)売薬で、甲賀流忍術の極意書「万川集海(ばんせんしゅうかい)」には、育てた薬草を用いて忍者たちがさまざまな生薬を生み出していたことが書かれています。彼らは商人や町人に姿を変えて諸国を渡り歩きながら、自分たちが開発した常備薬や護身薬を売り歩いたとも言われています。
「万川集海」には、携行食でもある飢渇丸(きかつがん)、水渇丸(すいかつがん)のほか、敵を眠らせる薬、逆に眠気を覚ます薬、痴呆状態にさせる薬などが紹介されています。そんな薬を作ることができて全国の情報にも詳しい、かつ火薬も取り扱える、今風に言うなら“ハイテク集団”が、後世において“忍者”と呼ばれるようになっていったと考えるのが自然かもしれません」。(古田さん)
農閑期の副業と位置付けられてきた甲賀売薬は、江戸末期以降は配置売薬として親しまれるようになっていきます。
一方、日野町では医者が「万病感応丸(まんびょうかんのうがん)」を開発。近江商人がこの日野売薬を全国に売り歩きました。
また、東海道や中山道を行き来する大名や旅人相手に売られていたのが「和中散(わちゅうさん)」と「有川赤玉神教丸(ありかわあかだましんきょうがん)」で、これらは街道売薬と呼ばれています。
大正から昭和にかけては業界全体の組織化と近代化が進み、販路も国内はもとよりアジア諸国にまで広がりました。令和3年(2021年)の調査によると、滋賀の医薬品生産金額は全国6位。現在、県内には35社、40工場を数える医薬品関連施設が稼働。長きにわたって受け継がれてきたノウハウに加え、医薬品の製造などに欠かせない水資源をはじめ環境に恵まれていること、様々な地域や都市からアクセスしやすいことなども薬業の発展を支えています。
「県内全生産額の96%が医療用薬品。規模はそれぞれ異なりますが、いずれの企業も高い技術力を保有しています。中小規模ながら高い全国シェアを占める企業、大手ドラッグストアのプライベートブランド製造を行っている企業もあります」。(古田さん)
甲賀と日野を中心とする滋賀の地場製薬企業における令和3年(2021年)の医薬品生産高は738億円。数多い滋賀の地場産業のなかでもトップを独走しています。
「医薬品だけでなく、医薬部外品、化粧品に該当するものも生産されているので、実際の数字はもっと大きくなると思います。ただ、それほどの地場産業であることは、地元の甲賀市以外ではあまり知られていないのも事実。ひとつの製品を皆様のもとにお届けするため、さまざまな知恵と努力を重ね、厳しい基準をクリアしている滋賀の薬をもっと多くの方に知ってもらえればと思っています」。(古田さん)
甲賀市には、人と薬の関わりについての学習と体験ができる「甲賀市くすり学習館」があり、ワークショップなども随時開催されています。また、11月には「ここ滋賀」でのイベント開催も予定されています。
一般社団法人滋賀県薬業協会
■住所 滋賀県甲賀市甲賀町大原市場700番地2
■連絡先 0748-88-3105
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甲賀市くすり学習館
■滋賀県甲賀市甲賀町大原中898-1
■連絡先 0748-88-8110
■開館時間 9:30~17:00 月曜休館
■費用 入館無料
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