歴史シリーズ「近江と徳川家康」② 神君甲賀・伊賀越え

2023年11月3日(金)公開

文:淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

 

意外と近江と関りがある家康

 

2023年のNHK大河ドラマは、徳川家康の生涯を描く物語です。家康というと、信長や秀吉のように近江国(滋賀県)に本拠を置いた訳ではないので、滋賀県にとっては少々縁遠いと思われがちですが、近江国では家康の人生においても節目となる事件がいくつか起きています。このシリーズでは、3回に分けて家康と近江の関わりを見て行きましょう。2回目となる今回は、「本能寺の変」後の家康による逃避行「神君甲賀・伊賀越え」についてです。

 

家康の甲賀・伊賀越えのルート図

神君伊賀越えルート全体図


武田氏滅亡後の家康上洛

 

三河国(愛知県東部)や遠江国(静岡県西部)に本拠をおく徳川家康にとって、甲斐国(山梨県)や信濃国(長野県)を領した武田家の勢力は絶えず脅威でした。しかし、この武田氏も天正3年(1575年)の長篠合戦の敗戦や、天正10年(1582年)の織田信長の総攻撃を受けて、信玄の子・勝頼は討たれ、武田氏は滅亡しました。
その結果、家康は駿河国(静岡県東部)を三河国や遠江国に加えて領国とすることに成功したのです。一方で信長との同盟関係は、徐々に主従関係に変化していきます。
武田氏が滅んだ直後、信長は武田領国の再編成を行ない、富士・東海道遊覧を楽しみ安土に帰りました。家康は駿河国拝領の礼のため、5月15日には安土城に行き歓待を受けています。さらに、信長の勧めで京・大坂・奈良などを見学し、運命の6月2日は和泉国堺に宿泊していました。この家康の堺滞在時に、「本能寺の変」が起きたのです。

 

 

「本能寺の変」の報

 

堺に宿泊中であった家康は、6月2日の朝上洛しようとしていましたが、京都から急ぎやって来た茶屋四郎次郎から、事件の一部始終を知らされました。茶屋は情報収集のために家康が京都においた呉服商です。
この畿内への旅は出陣ではなかったので、家康周辺には少数の供しかいませんでした。しかも、明智光秀は信長との同盟者として家康の命を狙って来るのは当然で、本国へ通じる近江国の主要街道は押さえられていました。家康としては落武者狩りの危険を冒しても、脇道を通って本国に至る逃避行をせざるを得なくなったのです。
ただ、最短距離で伊勢湾に至る伊賀国は、織田信長が前年に徹底的に攻撃し、全滅させた「天正伊賀の乱」の地でした。信長の死を知って、反信長勢力が息を吹き返しており、家康としてはなるべく伊賀国を通りたくなかったのが本音でした。

 

 

逃避行のルート

 

この逃避行を記す記録としては、当時のものはないのですが、江戸時代になってから、幕閣の大久保忠隣(ただちか)の子で石川康通の養子である石川忠総(ただふさ)がまとめた『石川忠総留書(とめがき)』が比較的良質とされています。まず同書によって、大枠の逃避行ルート(定説)を紹介しましょう。

 

6月2日
堺を発って、南山城路を通り、山城国宇治田原山口館(京都府綴喜郡宇治田原町郷之口)に宿泊。
6月3日
山口館から裏白峠(山城・近江国境)を越え南近江路に入り、近江国甲賀郡小川にあった多羅尾光俊(たらお・みつとし)館(甲賀市信楽町小川)に宿泊。裏白峠手前には、「家康公 腰かけの石」がある遍照院(宇治田原町奥山田)があります。
6月4日
小川の多羅尾光俊館を出て、北伊賀路・伊勢路を通り四日市に至り、その南に当たる長太(なご、鈴鹿市、近くの白子とも)から船に乗り、船中泊。
6月5日
知多半島を横断、再び海路で三河国大浜(愛知県碧南市築山町)に上陸、三河国岡崎へ帰着。

 

遍照院(宇治田原町奥山田)
小川の多羅尾光俊館跡


6月4日の行程、3つの可能性

 

この内、不明とされるのは6月4日の行程です。この日の後半の行程は、伊賀国柘植(三重県伊賀市)、伊勢国加太(かぶと)(三重県亀山市)、関(三重県亀山市)、亀山を通過したのは確実と考えられています。特に、柘植の徳永寺には家康が立ち寄ったという伝承や痕跡があります。
一方、4日前半の行程に諸説あります。『石川忠総留書』では、小川の多羅尾光俊館→桜峠→丸柱→川合→柘植の①桜峠越えとしています。峠を越えた丸柱から柘植までは現在の伊賀市で、伊賀国北部を抜けたことになります。丸柱の宮田氏が家康を案内したとしたという記録もあります。
また、徳川幕府の正式な記録『徳川実紀』は、多羅尾光俊館から②御斎峠(おとぎとうげ)越えをして、丸柱に至る経路と記しています。
そして、『戸田本三河記』によれば、家康一行は多羅尾光俊館から③甲賀越えで伊勢国関へ出たと記しています。

 

徳永寺
桜峠
御斎峠(おとぎとうげ)


甲賀越えの可能性

 

この逃避行について、三重大学の藤田達生(ふじた・たつお)さんは、甲賀衆の山中氏(甲賀市水口町宇田)や和田氏(甲賀市甲賀町和田)の家に、逃避行に関する家康文書が残った経緯からして、③の甲賀越えの可能性が高いのではないかと指摘します。
藤田さんは、信楽から水口南を経て油日から柘植に抜ける経路を想定されていますが、この道は下り道で距離も伊賀越え(桜峠越え)とはそう変わらないと言います。多羅尾光俊館を出て、甲賀郡内を経て伊賀国境に至る比較的安全なルートを家康は選択したのではと考えられてます。この場合、伊賀国の通過距離は、柘植周辺のわずか3キロ程度(加太からは伊勢国)となります。

 

 

第4のルート、五位ノ木峠越え

 

一方、文献的な根拠はありませんが、地元では④五位ノ木峠(ごいのぎとうげ)を通ったのではないかという、第4の説もあります。これは、ほぼ県道50号線(滋賀県・三重県とも同じ号数)のルートに当たります。この経路は①の桜峠へ行く道の神山(こうやま、甲賀市信楽町神山)から東へ入り、五位ノ木峠を越えて伊賀国へ入り、息障寺(甲賀市甲南町杉谷)がある岩尾山の南を通り、明王寺(甲賀市甲南町磯尾)の南方をかすめて、柘植の徳永寺の北に出る道です。甲賀と伊賀の境を出入しながら伊賀に至ります。
明王寺は天台宗のお寺ですが、徳川家康はじめ徳川将軍4代までの位牌が祀(まつ)られており、家康の逃避行との関係も指摘されています。この経路は、先の3つのルートにプラスされる第4のルートであり、沿道に甲賀衆の城館も多いところから、家康が通った可能性は非常に高いのではないかと思います。

 

五位ノ木峠
明王寺


伊賀越えか甲賀越えか

 

藤田さんによれば、家康は以前より伊賀衆よりも甲賀衆の方が近い存在だったと言います。例えば、六角氏を庇護する甲賀衆を攻撃しようとする織田信長を、思いとどまらせたのは家康の力と言われています。
江戸時代初期、伊賀衆の服部半蔵のもとに200人の「伊賀同心」が組織され、表向きは鉄砲衆でありながら、主に幕府の諜報活動を担ったことは、よく知られています。藤田さんによれば、家康の「伊賀越え」を伊賀衆が助けたという話は、享保11年(1726年)に作られた『伊賀者由緒書』に初めて登場する話とされます。
「伊賀越え」は、彼らの由緒を飾るために18世紀前半に創作された話で、実際は「甲賀越え」が正しいのかも知れません。あるいは、④の説などは甲賀や伊賀が入り混じった経路を行くもので、一般に言われる「神君伊賀越え」ではなく、「家康の甲賀・伊賀越え」とするのが、一番正しいのかもしれません。
皆さんも、甲賀・伊賀の山中をドライブしながら、家康の足跡をたどってみてください。

 

*④の五位ノ木峠がある県道50号線は道が狭いので、通行には十分注意ください。

 

 

■「姉川古戦場」記事はこちら

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