歴史シリーズ 豊臣兄弟ゆかりの地を巡って②

2026年3月11日(水)公開

文:淡海歴史文化研究所 所長 太田 浩司

 

 

 

 

 

 

 

大河ドラマ『豊臣兄弟!』に寄せて

 

 

2026年のNHK大河ドラマは「豊臣兄弟!」。弟・秀長の視点から豊臣秀吉の時代を描きます。前回は、小谷城攻めの結果、秀吉・秀長が与えられた長浜城について紹介しました。

今回は、信長亡き後、秀吉が柴田勝家と戦った賤ヶ岳合戦における秀長本陣の田上山城を紹介します。

 

 

 

 

 

 

田上山城に置かれた秀吉軍の中枢

 

 

織田信長が「本能寺の変」で討たれたのは、天正10年(1582年)6月2日のことでした。賤ヶ岳合戦は、その翌年の4月20日・21日、信長の後継者を巡って、羽柴秀吉と柴田勝家が、近江国伊香郡余呉湖(滋賀県長浜市)周辺で雌雄を決した戦いです。

 

この合戦は七本槍の活躍があまりにも有名で、いかにも両軍の遭遇戦のように思われています。しかし、実態は合戦当日の1ヶ月余り前から、両軍が木之本(長浜市木之本町)の宿場から、柳ヶ瀬(同市余呉町)の山中まで、陣城(砦)と言われる戦闘用の城郭を築いて睨み合った籠城戦でした。城の数は主なものだけでも両軍で15を越えます。

 

この城郭群の麓を通る北国街道を、突破して京都へ出たい北庄城(福井市)の城主・勝家と、それをくい止めたい秀吉の思いがぶつかった合戦です。秀吉は当時すでに畿内を地盤としていました。合戦は勝家方の大岩山城攻撃軍が、秀吉軍に追撃され全軍崩壊となり、秀吉軍の勝利となりました。

 

 

秀吉が本陣を置いた浄信寺(木之本地蔵院)

 

 

秀吉方の陣城の中、指令所が置かれたのが田上山城で、その城主は秀長でした。両軍が対峙している期間、秀吉は木之本浄信寺(同市木之本町)に置かれたと推定される本陣、さらに南の長浜城で秀長に指示を与えていたことが、現存する秀長宛ての秀吉文書から知られています。つまり、賤ヶ岳合戦の前線の大将は秀長であったのです。

 

田上山城跡は土木工事の跡が、現在も非常によく残ります。木之本の集落の北の地蔵山(田上山)323メートルの頂上に主郭をおき、その南北にも土塁と堀切で囲われた曲輪(くるわ)が残ります。西に延びる尾根にも曲輪が続き、その曲輪北側に配された主郭から続く土塁(どるい)は、この城が北側の敵、すなわち勝家軍に向け造成されたことを示します。北側の曲輪の入口(虎口)前に、敵の侵入を遮蔽する「かざし土塁」が築かれているのは、この城の見所です。

 

城跡へは、木之本集落の意冨布良(おほふら)神社から登って山道約30分です。山城登山としては、初級コースですので、是非お訪ねください。

 

 

田上山城の主郭北の堀切

田上山城復元図(© 長浜み~な編集室)

 

 

 

 

 

 

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