天下人の歩みを辿る、近江の城・城跡めぐり

2023年7月18日(火)公開

 

戦国時代、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった名だたる武将が、天下統一を目指すための拠点を築いた近江。滋賀県には、安土城や彦根城をはじめ1300を超える城郭がありました。今回は県内各地にある4つの城や城跡を紹介します。それぞれに残された痕跡から、天下人たちが歩んだ歴史を感じてみませんか。

天守が国宝に指定

広大な敷地に多くの文化財が残る

①彦根城

 

画像提供:彦根市文化財課
画像提供:彦根市文化財課

滋賀県の北東部に位置する彦根市。関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康の命によって、慶長9年(1604年)から約20年かけて築かれたのが彦根城です。徳川家康の指示により、新しい時代の政治の中心地をつくるため、平野と湖に面した彦根山に築城しました。
約15万坪の広さをもつ彦根城は、多くの見どころがあります。3階建て、3重の屋根で構成された天守は、昭和27年(1952年)に国宝に指定。また4つの櫓(やぐら)が重要文化財に指定されています。敷地全体を囲む水堀と石垣は、ほぼ完全な姿で残っています。
大規模な池泉回遊式庭園・玄宮園(げんきゅうえん)も城の北側に。池の周りをぐるりと散策でき、春から夏にかけては新緑、秋は紅葉、冬は雪景色と、四季折々の表情が楽しめます。
江戸時代の統治のあり方が分かる、築城時からの変わらぬ姿を保つ彦根城は、今、世界遺産登録をめざしています。

 

■場所 滋賀県彦根市金亀町1-1
■問合せ 0749-22-2742(彦根城運営管理センター)
■開城時間 8:30~17:00 ※最終入城は彦根城と玄宮園は16:30まで、開国記念館は16:45まで
■休日 無休 ※開国記念館は12月25日から12月31日まで休館
■料金 一般 800円、小・中学生 200円(玄宮園を含む彦根城の観覧料金)
※そのほかの料金は公式サイトよりご確認ください
■ホームページはこちら

 

 

城下町とのつながりを意識して築城

現在は長浜の歴史を伝える博物館に

②長浜城

 

 

滋賀県北部、長浜市。JR長浜駅から徒歩7分の場所に、長浜城があります。関ヶ原の戦いから遡ること25年前。羽柴秀吉(のちの豊臣)によって、天正2年(1574年)に建て始められました。城下町との関わりを重視していたことと、湖上を含む交通の便が良かったことが、この地に築城した決め手だったとされています。秀吉は天正10年(1582年)まで長浜城に住み、ここから織田信長の先兵として北陸や中国へ攻めていきました。その後5代目城主の内藤信正が、摂津に移ったことにより廃城しました。
昭和58年(1983年)市民の歴史への関心や熱意によって集まった寄付金から、当時の城を模して今の長浜城がつくられました。現在城内はこの土地の歴史を学ぶことができる長浜城歴史博物館になっています。最上階には展望台もあり、長浜のまちを一望することができます。

 

■場所 滋賀県長浜市公園町10-10 
■問合せ 0749-63-4611(長浜城歴史博物館)
■営業時間 9:00~17:00(入館受付は16:30まで)
■休日 年末年始、そのほか展示替え等による月1回程度の臨時休館あり
■料金 一般(高校生以上)410円、小・中学生 200円

 

 

石垣から感じ取る桝形虎口(ますがたこぐち)の遺構

落ちそうで落ちない八丈岩も話題

③三雲城跡

 

 

滋賀県南部、湖南市の山の中にひっそりと建つ「三雲城跡」の石碑。室町時代後期、近江守護を務めていた佐々木六角高頼(たかより)が、家臣の三雲典膳(てんぜん)に命じて築城させたのが三雲城です。戦から逃れるために、山を切りひらいてつくられました。その後、信長の家臣・佐久間信盛の侵攻によって落城し、廃城しました。
三雲城の出入り口は、四角に囲った桝形虎口。その遺構である石垣は、くさびを打って石を割り、積み上げる矢穴(やあな)技法でつくられたものです。
現在、話題となっているのが城内の一角にある、自然がつくり出した落ちそうで落ちない岩・八丈岩。5メートルを超える巨岩は、絶対に落ちない岩として、受験生に人気のスポットとなっています。

 

■場所 滋賀県湖南市吉永 
■問合せ 0748-71-2331(湖南市役所商工観光労政課)

 

 

乙女ヶ池を外堀とする水城

高島支配の拠点に

④大溝城跡

 

 

滋賀県北西部の高島市。JR近江高島駅から徒歩約7分の場所にあるのが大溝城跡です。天正6年(1578年)織田信長の命によって、甥の信澄(のぶすみ)が築城。琵琶湖東岸にあった安土城の対岸に位置するこの地を、高島支配の拠点としました。古地図によると、琵琶湖に通じる内湖の乙女ヶ池を外堀とする水城だったそう。
天正10年(1582年)明智光秀が本能寺の変をおこすと、光秀の娘婿でもあった信澄は、大坂城で信孝(信長の三男)らに襲撃され自害。その後、大溝城は解体され、建築部材は水口岡山城に移されたと伝えられています。
元和5年(1619年)には分部光信(わけべみつのぶ)が大溝初代藩主を務め、城下の整備に着手。以降、この地に陣屋を営み12代光謙(みつのり)の明治維新までその支配が続きました。現在は石垣のみが残り、動乱の世を生きた武将たちの息遣いが感じられます。

 

■場所 滋賀県高島市勝野 
■問合せ 0740-33-7101(びわ湖高島観光協会)

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