歴史シリーズ「近江と徳川家康」① 姉川古戦場

2023年8月30日(水)公開

文:淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

 

意外と近江と関りがある家康

 

2023年のNHK大河ドラマは、徳川家康の生涯を描く物語です。家康というと、信長や秀吉のように近江国(滋賀県)に本拠を置いた訳ではないので、滋賀県にとっては少々縁遠いと思われがちですが、近江国では家康の人生においても節目となる事件がいくつか起きています。このシリーズでは、3回に分けて家康と近江の関わりを見て行きましょう。1回目は、姉川合戦についてです。

 


湖北戦国地図

姉川古戦場全体図


信長や秀吉より年下

 

徳川家康は、天文11年(1542年)、三河国岡崎城にて誕生しました。織田信長は天文3年(1534年)の生まれで、8歳年上。豊臣秀吉は天文6年(1537年)の生まれで、5歳年上です。なんだか家康というとお爺さんのイメージがありますが、49歳で死去した信長、62歳で死去した秀吉より年下なんです。ちなみに、家康は75歳まで生きました。やはり、長く生きないと天下を取れないということですね。

 

 

信長との「清洲同盟」

 

永禄4年(1561年)、家康20歳の時、今まで駿河今川氏に従ってきましたが、尾張の織田信長と和睦して同盟を結ぶことになります。これを、信長の居城の名をとって「清洲同盟」といいますが、信長が天正10年(1582年)に本能寺で倒れるまで20年以上続きました。戦国の同盟としては、異常に長く固い同盟関係でした。その結果、今回の主題である浅井・朝倉軍と戦った姉川合戦や、鉄砲を多用したことで知られる天正3年(1575年)の長篠【ながしの】合戦は、家康と信長が共同して戦うことになります。

 

 

越前国敦賀攻め

 

元亀元年(1570年)の家康29歳の時、織田信長に従って越前朝倉攻めのため、京都から敦賀まで出陣しています。この出陣は、室町幕府第15代将軍・義昭の命を受けたものと最近考えられるようになっています。4月になると信長と家康は越前敦賀へ入り、朝倉方の城砦を攻撃し落城させました。その内、敦賀の町の東にそびえる手筒山【てづつやま】攻城戦では、徳川家康が南大手口から軍を突入させたことが知られています。

 

 

家康、敦賀から撤退の謎

 

しかし、この時、浅井長政が朝倉氏に味方して、信長に反旗を翻したとの情報が入りました。浅井長政の妻となっていた信長の妹の市が、両口を塞いだ小豆袋を送って、その危急を兄に伝えたという逸話は、この時のものです。信長は秀吉や明智光秀を殿【しんがり】に残して逃れたのに対し、家康は秀吉らと共に敦賀に置き去りにされた形になりました。家康がこの時、如何にして兵を撤収し、本国の三河に帰ったかは謎に包まれています。

 

 

合戦直前の家康の陣所

 

浅井・朝倉氏の行動に怒った信長は、早速その年6月に近江へ進軍します。最初、浅井氏の居城・小谷城【おだにじょう】を包囲し虎御前山【とらごぜんやま】で合戦がありましたが、姉川合戦の4日前には、小谷城の支城である横山城を包囲します。この包囲陣の中に、三河から援軍にやってきた家康も加わります。その陣所は、龍ヶ鼻と言われる場所で、今も茶臼山【ちゃうすやま】古墳(滋賀県指定史跡)などがあり、古戦場が一望できるビューポイントとなっています。

 

龍ヶ鼻から姉川古戦場を望む


合戦当日の布陣

 

姉川合戦当日、浅井・朝倉軍はそれまで籠っていた大依山【おおよりやま】から前進し、姉川北岸の浅井郡野村(長浜市野村町)に本陣を置き、朝倉軍の主将・朝倉景健【かげたけ】は同じく北岸の三田村(同三田町)の集落内(国指定史跡・三田村氏館跡)に本陣を置きました。これに対し、信長の本陣は姉川南岸の「陣杭【じんご】の柳」(長浜市東上坂町)で、徳川家康の本陣は「陣杭の柳」から約800メートル北西へ行った「岡山」と呼ばれる小丘でした。この「岡山」は、家康が合戦に勝利したことから、江戸時代には「勝山」と呼ばれるようになります。いずれも、現地に説明看板が建ち、分かりやすく史跡の説明がなされいます。

 

三田村氏館の東虎口(入口)

三田村氏館跡

陣杭の柳(織田信長本陣)


姉川合戦の真相

 

姉川合戦は、一般的に両軍の全面衝突と言われますが、私はその通説とはまったく相違し、浅井長政が横山城包囲網の最後尾(最北端)にいた織田信長本陣に「奇襲」をしかけた戦いと考えています。浅井氏の重臣・遠藤直経は信長の首を狙って、織田軍の陣地深くに入ります。しかし、竹中半兵衛の弟・久作に敵と見破られ討死したという逸話があるからです。実際、古戦場には直経が戦死した場所に「遠藤塚」という直経の供養塔が残っています。そこは、信長の最初本陣「陣杭の柳」より200m余り、南に後退した場所になります。信長本陣は、浅井氏の「奇襲」により後退したのです。

 

遠藤塚と説明看板

遠藤塚(遠藤直経の供養塔)


徳川軍の戦いの実像

 

一方、浅井軍が織田軍に突進した頃、徳川軍は家康本陣を「岡山」において、本隊は姉川を渡り姉川北岸の「千人斬りの岡」や「血原」付近で朝倉軍と交戦していました。当地での合戦は朝倉軍が早々に退却し、それを追撃する戦いであったと推定します。しかし、家康を祖とする徳川将軍家が統治する江戸時代に、家康軍の活躍を過大に評価する逸話が生まれ、朝倉軍との全面的交戦があったように伝え、さらに徳川軍の援助によって、形勢が悪かった織田軍も浅井軍に大勝利したというストーリーが、軍記物などで創出されました。

 

岡山(勝山、徳川家康本陣跡)


真柄十郎左衛門【まがら じゅうろうざえもん】の活躍

 

姉川合戦の逸話として、遠藤直経の討死と共に有名なのが、朝倉軍の大将で「豪強」の聞こえがあった真柄十郎左衛門が、刃の長さ5尺3寸(約160㎝)の太刀を振り回し力戦したものの、家康の家臣・向坂【さきさか】吉政によって十文字槍で突き伏せられ、首を取られた話です。その場所は、古戦場からかなり北となる虎御前山や田川付近と考えられます。徳川軍は、十郎左衛門を殿として退却する朝倉軍の後を追って、小谷城下近くまで追撃したと考えられます。徳川家康にとっての姉川合戦は、追撃戦が主で朝倉軍との全面衝突はなかったと見ています。

 

紙本著色六曲一隻 姉川合戦図屏風(福井県立歴史博物館所蔵)


姉川古戦場に行ってみよう!

 

姉川合戦後、浅井・朝倉氏の滅亡まで4年の時間が必要だったこと、その過程で織田軍と浅井・朝倉軍の戦いが「志賀の陣」や、長政と秀吉との「箕浦合戦」が行なわれたことを考えれば、姉川合戦の結果は浅井・朝倉軍の致命的な敗退ではなかったと、私は思っています。この合戦を終えても、浅井・朝倉軍には余力はあったのです。この辺は、通説とも大河ドラマとも大分違う所ですので、皆さんぜひ現地を訪れ、姉川合戦の経過や布陣を自分の眼で確認してください。現地には、ご紹介した史跡ごとに詳しい看板が建っていますので、今回のお話を確認しつつ、ガイドなしでも「戦国ツアー」が出来るはずです。

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