2025年12月15日(月)公開
文:淡海歴史文化研究所 所長 太田 浩司
大河ドラマ『豊臣兄弟!』に寄せて
2026年のNHK大河ドラマは「豊臣兄弟!」。弟・秀長の視点から豊臣秀吉の時代を描きます。
秀吉・秀長の兄弟は織田信長の小谷城攻めに参陣、その戦功により兄が長浜城主となったことで滋賀とも縁深い存在です。
さらに、信長亡き後、秀吉が柴田勝家と戦った賤ヶ岳でも秀長は活躍します。このシリーズでは、2人の縁の地を紹介していきます。
長浜城主・羽柴秀吉の誕生と北近江支配の始まり
秀長の兄に当たる羽柴秀吉は、天正元年(1573年)9月に小谷城主の浅井長政を滅亡させると、織田信長から北近江の地を与えられ長浜城主となります。それから、「本能寺の変」までの10年間、城主として城郭の普請や城下町の造成、領内政治を行なっていきました。
初めて一国一城の主となった秀吉は、その家臣が少なかったため、政治的にも親族が大きな役割を果たしたと考えられます。正室・ねね(北政所)の親族である杉原家次等が、政権の重要ポストにいたようです。秀長も秀吉が行なった中国攻めでは、秀吉を補佐しているので、長浜領政治にも関与したと考えていいでしょう。
秀吉や秀長が政治を行なった長浜城の本丸・二の丸は、現在は豊公園となっています。本丸には昭和58年に復興された長浜城天守閣が建設されており、内部は歴史博物館や展望台となっています。二の丸はテニスコートや駐車場で、三の丸はJR長浜駅付近から北部の住宅地へ連なり、その東側に城下町が展開していました。秀長の屋敷は、二の丸か三の丸にあったと推定できます。

長浜城の天守台
長浜城は明治維新まで存続した彦根城や膳所城と違い、元和元年(1615年)には廃城となり、江戸時代において跡地は田畑でした。昭和後半の道路・港湾整備の影響もあり、その遺構は驚くほど残っていません。ただ、いくつかの痕跡はあります。
江戸時代の長浜町絵図によれば、天守台の大きさは東西12間・南北10間の規模でしたが、現在も小高い丘として残っています。その西の湖岸には「太閤井阯」があります。昭和14年の夏、旱魃の際に湖中から発見された井戸跡で長浜城内の井戸跡と考えられています。
さらに、そこから東南に行った豊公園管理事務所の南には、昭和44年の発掘調査で発見された石垣の出土地があります。湖岸の砂中から、長さ25mの石列が発見されました。石垣は埋め戻されましたが、地上には説明プレートと石垣の位置を示す石造のサインが埋め込まれています。長浜城跡を訪ねて、秀吉・秀長のわずかな痕跡を辿るのも、大河ドラマの一つの楽しみ方です。

長浜城石垣出土地