紫式部と近江③紫式部が見た琵琶湖岸の風景

2024年11月25日(月)公開

文:淡海歴史文化研究所

所長 太田浩司

 

 

 

大河ドラマ『光る君へ』に寄せて

 

今年のNHK大河ドラマは、『源氏物語』の作者紫式部の生涯を描く『光る君へ』です。このシリーズでは、紫式部と近江との関係を3回に分けて紹介しています。

式部ゆかりの近江の史跡の中で、最終回の3回目に取り上げるのは、長徳2年(996年)、越前守となった父・藤原為時に従って越前に赴いた経路において、式部が詠んだ琵琶湖の風景です。さらに、翌年か翌々年に式部は単身で帰京しています。その帰りの道中に詠った和歌も紹介しましょう。

 

 

 

白鬚神社の沖合で

 

紫式部は、越前に向かうため、京を出て近江国境の逢坂山を越え、大津の打出浜に至ります。打出浜は、現在の「びわ湖ホール」周辺に当たります。そこから船に乗り、湖西の沿岸を進み「三尾が崎」(高島市高島町)の地先で、漁師が網を引く姿を見て、次の歌を詠んでいいます。「三尾が崎」は、白鬚神社の辺りを指します。

 

白鬚神社の紫式部歌碑

 

三尾の海に 網引く民の 手間もなく

立居(たちい)につけて 都恋しも

 

「三尾が崎」で漁師が休む暇もなく網を引いている。その姿を見ていると、都のことが恋しくなる、といった意味でしょうか。都生活に慣れていた式部にとって、越前に赴むく途中の風景は、なぜか寂しく思えたのだと思えます。網を「引く」ことで、都に帰ることを連想したのかもしれません。

 

この不安な思いは、越前に至るまで持ち続けていたようです。高島市鵜川の白鬚神社の境内には、この歌を刻んだ歌碑が建立されています。

 

近江舞子での地引網漁(昭和初め頃)

 

 

 

琵琶湖航行の不安

 

越前へ向かう湖上で詠んだ歌を、もう1首紹介しましょう。

 

かき曇り 夕立つ浪の 荒ければ

浮きたる舟ぞ 静心(しずこころ)なき

 

一天にわかにかき曇り、夕立が来て波が高くなる中、乗っている船の揺れは私を心落ち着かなくさせる、といった意味でしょうか。琵琶湖の荒波の不安が、「三尾が崎」で感じた不安を増幅させていったようです。

 

ここに出てくる「浮きたる舟」は、『源氏物語』の後半「宇治十帖」第7帖の巻名「浮舟」となっているのはよく知られています。琵琶湖での不安な体験は、『源氏物語』に投影されていくのです。

 

 

 

不安な越前での生活

 

越前に入り、木ノ芽峠か山中峠を越え、越前国府があった武生(越前市)に着いた式部ですが、雪を詠んだもの、都を懐かしむ歌ばかりで、越前国の美しさ詠んだ作品は知られていません。越前でも不安で辛い日々だったのでしょうか。

 

福井県越前市の紫式部公園

 

初めに記したように、式部は長徳3年(997年)の年末かその翌年の春には、父を残して都に帰っています。その理由は不明ですが、20歳ほど年上の藤原宣孝と結婚するためであったとの説があります。また、これは越前赴任前から決まっていたとも言われています。

 

紫式部像(越前市紫式部公園)

 

 

 

越前からの帰路に伊吹山

 

越前からの復路も、往路と同じく塩津街道を敦賀から辿り(往路は歴史シリーズ①で紹介/詳しくは歴史シリーズ①「紫式部の越前下向と塩津越」をご確認ください。)、塩津(長浜市西浅井町)から湖上を船で進みますが、今度は湖東の湖岸沿いに南下したようです。そこで、船上から伊吹山を遠望し、次の歌を詠みました。

 

名に高き 越(こし)の白山(しらやま) ゆきなれて

伊吹の嶽(たけ)を なにとこそ見ね

 

伊吹山

 

越前の白山の雪を見ているので、伊吹山の雪はたいしたものとは思わないという意味でしょう。都暮らしが大半の平安貴族のお姫様は、伊吹山中の雪の恐ろしさは知らないようです。

 

 

 

磯崎の鶴を詠む

 

さらに南に進み、坂田郡・犬上郡境の沖合を航行した時に、磯崎(米原市磯)辺りで、鶴がなく声を聞いて、次の歌を詠んでいます。

 

磯がくれ おなじ心に 鶴(たづ)ぞ鳴く

なに思ひ出づる 人や誰(たれ)ぞも

 

鶴の鳴き声を聞いて、自らの思いをそこに重ね合わせたものでしょう。そこで思い出す人は、都で夫なる宣孝なのでしょうか。他の誰かなのでしょうか。

 

磯集落の南にある磯崎(塩津方面を望む)

 

『近江輿地(よち)志略』という近江を代表する江戸時代の地誌によれば、この磯崎には「結(むすび)岩」があると記されています。磯崎に迫る磯山の山岸より半町(約50m)ほど水中にあり、大きさ2間(けん、約3.6m)四方で、男石と女石があると記されいます。地元の伝承では、この岩のある水底から湖西の白鬚神社の社前までは通路があったと記していますが、『近江輿地志略』の筆者さえも「虚偽の説」と断じているように、あくまでも伝説です。

 

この「結び岩」は現在も磯崎に立っていますが、式部もきっとこの岩を眺めながら沖合を航行したのでしょう。近くには、『万葉集』に載った高市連黒人の「磯の崎」の和歌が記された石碑が建立されていますが、紫式部の歌碑がないのは寂しい限りです。

 

磯崎(米原市磯)にある高市連黒人歌碑

 

 

 

「童べの浦」の沖合で

 

式部は、さらに琵琶湖を都に向かい、蒲生郡沖島・奥島(近江八幡市)周辺を過ぎる時、その辺りを「童(わらわ)べの浦」と聞いて、また歌を詠んでいます。現在においては琵琶湖最大の島は沖島で、長命寺がある奥島は陸続きですが、かつては奥島が琵琶湖最大の島でした。

 

老津島(おいつしま)  島守(も)る神や 諫(いさ)むらん

浪もさはがぬ 童(わらわ)べの浦

 

野洲市菖蒲「あやめ浜」の紫式部歌碑

 

「童べの浦」の場所は今となってはよく分からないのですが、野洲市菖蒲の「あやめ浜」、あるいは大中湖(だいなかのこ)の東北にある「乙女浜」とも言われます。野洲市の「あやめ浜」や、近江八幡市北津田町の百々(もも)神社には、この歌を刻んだ歌碑が建っています。

 

ここで、式部が歌った「島守る神」は、今も同町に鎮座する大嶋奥津島神社と見るべきでしょう。国宝「菅浦文書」(長浜市西浅井町菅浦伝来)や重要文化財「今堀日吉神社文書」(東近江市今堀町伝来)と共に、中世の惣村文書として知られる重要文化財「大島、奥津島神社文書」222通(重要文化財)を伝える神社として有名です。この文書は、琵琶湖の漁法・魞(えり)の初見史料があることでも知られます。

 

大嶋・奥津島神社は奥島にあるので、式部が詠んだ老津島は、奥島であったと考えるべきでしょう。

 

 

 

紫式部をたどる旅へ

 

紫式部は、このように琵琶湖の風景を心に留めながら、都に帰って行きました。ここで紹介した場所には、歌碑などが建立されています。是非、大河ドラマの湖上を行くシーンを思い出しながら訪ねてみてはいかがでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■「紫式部の越前下向と塩津越え」記事はこちら

 

 

■「石山寺と紫式部」記事はこちら

 

 

 

 

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