歴史シリーズ「近江と徳川家康」③ 「関ケ原合戦」後の近江の動乱

2024年1月23日(火)公開
文:淡海歴史文化研究所
所長 太田浩司

 

意外と近江と関りがある家康

 

2023年のNHK大河ドラマは、徳川家康の生涯を描く物語でした。家康というと、信長や秀吉のように近江国(滋賀県)に本拠を置いた訳ではないので、滋賀県にとっては少々縁遠いと思われがちですが、近江国では家康の人生においても節目となる事件がいくつか起きています。このシリーズでは、3回に分けて家康と近江の関わりを見て行きましょう。最終回の今回は、「関ケ原合戦」後の家康による佐和山城攻撃、三成捕縛(ほばく)、大津城への三成護送についてです。

 

 

 

決戦・関ケ原へ

 

慶長5年(1600年)9月14日の夜、赤坂(岐阜県大垣市)の岡山に本陣をおいた徳川家康は、石田三成が籠城する大垣城を放置して、西へ向かい近江国へ侵攻する戦略を立てました。近江国には三成の居城である佐和山(さわやま)があり、その先の京都や大坂にも迫り、三成の本拠を直接攻撃する作戦でした。
これを察知した大垣城の三成は、南宮山の南を通り、15日には関ケ原に布陣し、そこで近江国へ入るため2つに分岐する中山道(江戸時代の言い方だが、本記事ではこう言う)と、北国街道(近江では北国脇往還ともいう)を封鎖する陣形をとりました。

 

 

関ヶ原合戦と家康

 

朝から始まった関ケ原合戦は、小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)軍の家康方への寝返り、そして南宮山に陣した毛利秀元・吉川広家らの毛利軍がまったく動かなかったことから、戦況は家康有利に動きました。寝返った小早川秀秋軍の直接攻撃を受けた中山道を守る大谷吉継軍は崩壊、それにつられて北国街道を守る三成本隊も戦線を維持することができず、家康の勝利に終わりました。
関ケ原合戦について、家康が勝つべくして勝ったと見る向きも多いですが、実は家康は「大博打」をしています。毛利軍の不動を信じて、その前を通過し、三成方が居並ぶ敵陣深くまで陣を進めた決断は、危険な「賭け」であったと見られます。家康の「賭け」が当たった幸運が、この合戦の勝敗を分けたとも言えるでしょう。

 

 

関ヶ原古戦場 徳川家康陣地跡(陣場野)


佐和山城(さわやまじょう)攻撃へ

 

徳川家康は関ケ原合戦に勝利すると、さっそく三成の居城である佐和山攻撃に向かいます。
家康は合戦から2日後の9月17日には、まず現在の彦根市正法寺町の勝山に陣したといいます。そこから、佐和山から南へ3㎞ほどの雨壺山(彦根市芹川町など)に陣を移し、佐和山への総攻撃を命じました。三成が関ケ原から伊吹山方面に逃亡した結果、佐和山城の守りは父の正継や兄の正澄に託されていました。
現在も麓の長久寺(同後三条町)から登った雨壺山北端からは、佐和山を望むことができます。また、同寺では山から降りた家康が愛でたと伝える紅梅を、今も見ることができます。

 

新設された雨壺山家康陣所説明板(家康本陣跡)と佐和山城

長久寺(彦根市後三条町)

長久寺の紅梅(彦根市後三条町)


佐和山落城

 

佐和山城攻撃は、関ケ原で西軍から東軍に寝返った小早川秀秋と脇坂安治が、正面の鳥居本側から攻め上がり、田中吉政の部隊が北側の裏手(水ノ手)から攻め入りました。城内は内応者も現れ、本丸にいた石田正継や正澄、宇多頼忠(三成の舅)は自刃して果て、家臣の土田(どた)桃雲は三成の妻を刺殺して天守に火をかけたといいます。城内の婦女は、本丸東方の断崖に身を投げて死亡したと伝えられており、当地を「女郎ヶ谷」と伝えます。
9月晦日に東北の戦国大名伊達政宗のもとに届いた徳川家康からの報告(今井兼久の手紙の形)によれば、佐和山城はまだ本丸は落城していないとありました。しかし、この手紙を届けた飛脚が摺針峠(すりはりとおげ・彦根市中山町)を通った時には、本丸が焼けているのを見たと記しています。飛脚が見た佐和山城は、9月17日の落城時の姿だったのでしょう。

 

佐和山城の女郎ヶ谷木標(現存しない)

佐和山城本丸


関ケ原合戦後の治安政策

 

家康は合戦後の近江国内の混乱を防ぐため、9月15日の合戦当日以降、国内に何通かの禁制を出しています。16日付けで国内に出された禁制だけでも、①伊香郡内赤尾村等 12ヶ村宛、②浅井郡内津里村等 7ヶ村宛、③浅井郡内速水村等 19 ヶ村宛、④坂田郡小野庄4ヶ村宛、⑤日野町中宛に与えた禁制5通が知られています。
これらは、合戦後に家康軍が三成の所領がある近江国に侵攻し、かつ主将の三成が近江国内に逃亡した事実から、国内にさらなる合戦の危機があったことを示します。それを心配し自村に戦乱が及ぶのを避けるため、村々が家康に接近して、治安維持を保障する禁制を、軍資金等の提供を条件に得たものです。合戦直後の近江国内の緊迫した状況が読み取れます。

 

 

家康が凱旋した「吉例の道」

 

家康は17日に佐和山城の落城を見てそこに宿泊すると、18日には近江八幡に泊まって大津に向かいますが、その経路は後の朝鮮人街道を通っています。中山道鳥居本宿で中山道から分かれ、彦根・近江八幡を通過し、野洲郡行合(野洲市行畑)で中山道と合流する朝鮮人街道は、江戸時代に10回にわたって朝鮮通信使が往復した街道として知られています。
その理由が、関ケ原合戦に勝利した家康が、この街道を通って大坂に凱旋した「吉例の道」だからと説明されています。

 

 

家康が入った大津城

 

その後、家康は19日には草津に泊まり、20日には大津の陣営に到着、25日まで滞在しました。26日には大津を出て淀城に泊まり、27日には大坂に到着しています。大津の陣営では6泊しますが、大津城内に本陣を置いたと考えられます。この大津城は9月4日から関ケ原合戦当日まで、家康方の京極高次が籠城し戦っていました。長等山方面から砲撃された城内は、砲弾により建物も多く崩壊していたと考えられます。
家康の侍医板坂卜斎(いたさか・ぼくさい)の記録によれば、城中の建物は敵の砲弾の備えのため、屋根をまくってあったそうです。火矢や砲弾への備えでしょう。陣所としては屋根がないと使えないので、南門脇の長屋を陣所に使ったと記しています。この長屋は屋根が残っていたのでしょうか。20日には、関ケ原に遅参した嫡男の徳川秀忠が、草津から大津に至り面会を乞いましたが、家康は怒って会わなかったと言われています。

 

大津港入口にある大津城跡碑


石田三成の捕縛

 

三成の捕縛については、9月19日の段階で、家康とその家臣村越直吉が、三成の他、宇喜多秀家・島津義弘を捕縛するよう命じた文書(早稲田大学図書館蔵文書)が残っています。その後、9月22日には、伊香郡古橋村(長浜市木之本町古橋)で三成が捕縛された報が、田中吉政から届けられています。同日付で三成捕縛を賞した徳川家康の書状(譜牒餘録(ふちょうよろく))も残っています。
それらによれば、家康に報が届いた前日の21日に古橋において、吉政の手の者によって三成は捕縛されていました。実は、捕縛の報が届いた9月22日付けで、家康が越前方向に逃れた三成を捕縛するよう命じた文書も出ています(柳川古文書館所蔵文書)。これは、捕縛の報が届く前に書いたものでしょう。1日のなかでも、刻々と新しい情報が大津に届けられていた状況が知られます。

 

石田三成隠れ岩窟(長浜市木之本町古橋)


家康と三成の対面

 

21日に捕らえられた三成は、3日間にわたり井口村(長浜市高月町井口)で過ごし、田中吉政に連れられ24日は大津に向かい、25日には大津城の家康陣営に到着、家康は暖かくこれを迎えたといいます。26日には家康と共に大坂に向かい、大坂・堺・京の町中を引き回された上、10月1日に小西行長・安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)と共に京都六条河原で処刑されました。享年は41です。
井口村から大津城への道中に当たる大津市木下町(膳所の街中)の和田神社境内の大イチョウは、移送の途中に三成がつながれたという言い伝えが残っています。
家康は27日には大坂城に入り、豊臣秀頼に拝謁しています。この関ヶ原合戦により、家康は反対勢力を一掃することに成功し、開幕への道を突き進んでいきます。この家康の勝利に、近江は大きく関わりました。

 

 

 

 

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